風と光と二十の私と・いずこへ(短編集)/坂口安吾の自伝的小説集

風と光と二十の私と

坂口安吾の自伝的小説を集めた短編集をご紹介します。
岩波文庫↓はkindle版です。2021年9月24日現在、紙の本は品切れ中のようです。

岩波文庫 『風と光と二十の私と・いずこへ』目次

ふるさとに寄する讃歌
石の思い
おみな
風と光と二十の私と
二十一

篠笹の陰の顔
青い絨毯
天才になりそこなった男の話
流浪の追憶
二十七歳
いずこへ
三十歳
魔の退屈
勉強記
オモチャ箱
私は海をだきしめていたい
わが思想の息吹

講談社からも『風と光と二十の私と』を含む、安吾の自伝的小説を集めた短編集が発行されています。
こちらは19編あり、紙媒体とkindle版どちらも販売中です(2021年9月24日現在)

講談社『風と光と二十の私と』の目次

・女占師の前にて
・おみな
・孤独閑談
・古都
・二十一
・いずこへ
・魔の退屈
・石の思い
・風と光と二十の私と
・私は海を抱きしめていたい
・わがだらしなき戦記
・二十七歳
・わが戦争に対処せる工夫の数々
・暗い青春
・三十歳
・死と影
・釣り師の心境
・わが精神の周囲
・小さな山羊の記録

目次

基本情報

基本情報

・どちらも坂口安吾の自伝的短編小説を収録したもの(岩波文庫は16篇/講談社は19編)
・岩波文庫版は350ページ前後、講談社版は450ページ前後。

短編集より

短編集の中から、共通して収録されている作品をいくつかご紹介します。

『風と光と二十の私と』

どちらの短編集でもタイトルとして選ばれている作品。
坂口安吾が一年だけ代用教員(小学校5年生のクラス)をしていた時を振り返って書かれたもので、二十の私というのは安吾のことを指します(数え年なので、現在で言うと19歳)。

代用教員とは
正規の教員資格を持っていないが、有資格者の数が少ない戦前~1949年教育職員免許法制定の間に活躍した教員のこと。
石川啄木・小津安二郎・新見南吉なども代用教員を経験している。

自ら「不良中学生」(今でいう高校生)を任じていた少年が仮にも教師という立場になることを、安吾自身も「変な話」だと書いていますが、子供一人ひとりへの観察眼と対応はしっかりしています。
安吾いわく「手に負えない生徒たち」が送られてきているクラスなので、作中に登場するのは破天荒な子供や家庭に問題がある子供たちが多いようです。

実子ではない娘がひねくれているので、先生(安吾)に諭していただきたい、とやってきた母親に対し

いや、ひねくれてはおりません。……(中略)……素直な心と、正しいものをあやまたずに認めてそれを受け入れる立派な素質を持っています。

坂口安吾著『堕落論』より

↑と逆に母親を諭すなんていう一面も見ることができます。いい先生だ。
この他にも子供の目線に立った心温まる指導シーンがあり、私の中の安吾像がかなり変わりました(どういうこと)。

安吾の教師生活は精神的に満ち足りていたようですが、一年で辞めて大学へと進学します。
その理由が『風と光と二十の私と』の中にあり、坂口安吾という人間はそういう風にしか生きられなかったのだと理解はしますが、教員を続けた方が穏やかに長生きしたのじゃないかなとも思います。

あと安吾から見た「小学校教師とは」も語られており、これは現代にも通じるところがあるようで興味深いですよ。

『おみな』

母。――為体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

坂口安吾著『おみな』より

不穏な文章で始まる坂口安吾の『おみな』。
おみなとは老女や女性を指す言葉であり、ここでは母親や恋人たちを指しています。

安吾と実母の関係は想像を絶するもので、この『おみな』の中で詳しく語られています。
愛憎半ばする(愛情と憎しみが半々である)という言葉がありますが、安吾の自覚の中では殆ど「憎」であったはずの母への気持ちが、実はそうではなかった。
母とは、女とは自分にとって何なのかを煩悶する安吾の魂の叫びのような作品です。

『母』

「私」と友人の辰夫(たつお)、そして辰夫の母について書いた作品。
辰夫は大変頭の良い友でしたが、精神を病んで入院しています。

ほしにゃー

「私」の友誼の厚さにホロリとします。

辰夫の家族や他の友人は見舞いに来ないようで、唯一見舞ってくれる「私」が辰夫の心の支えになっているのです。
「私」は辰夫の家を訪れ、母親とも会うのですが……

辰夫の母のモデルが誰なのはわかりませんが、安吾自身の母のイメージも入っているような気がします。

『いずこへ(いづこへ)』

「私」はアパートで一人暮らしをしています。
そこへ特に愛していない「女」が毎日通ってくるようになり、それと共に増えていく鍋や釜、皿に「私」は心底ウンザリするのです。

「私」は食器や調理器具だけでなく、衣類や好きな本でさえ多くを所有することを嫌っていました。
一見ミニマリストのようですが、「私」の思想は似て非なるものです。

私は本能といふものを部屋の中へ入れないことにしてゐた。

坂口安吾『いづこへ』より

「私」は文学を志しながら自信も実績もなく、ただ働いても思うような贅沢もできないので「中途半端な所有欲」を持ちたくないだけ。
「偉大なる落伍者」への憧れもあり、全か無かしか欲しくないのです。

「私」は「女」の他に「女」の従姉妹のアキ10銭スタンドのマダムなどの女性たちと関わっていく中で自分や女たちに絶望し、気力を失っていきます。

ほしにゃー’s レビュー

ほしにゃー’sレビュー

短編集は安吾の自伝的作品を集めたものだけあって、暗いです(あっ)。
『風と光と二十の私と』は実母との確執・放校や落第でアウトサイダー側に落ちかけているものの、子どもたちと真面目に向き合っているし文学を志す安吾がいてキラキラしているのですが……

本当は母を愛し、愛されたいのにそれが叶わない。
どころか、なぜか多くいる子供の中で自分だけが憎まれていると思っていた安吾。

ほしにゃー

実際はどういうものかわかりませんが……

元々持っている気性の激しさもあるのでしょうが、「全か無か」しか欲しくないというのはある種の潔癖さを感じます。
幼少時に得られなかった「母」に神聖さを求めると同時に、得られないならば最低最悪の乱れた女性関係を選んでしまう極端さ。

けれども私は偉大な破壊を愛していた。

坂口安吾著『堕落論』より

『堕落論』で安吾はこう述べていますが、最低最悪を選ぶ行動も現状を「破壊」したいという願望の裏返しのように見えます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次